合浦公園は明治十四年(1881年)に建設を始め同二十七年に完成したものある。
当面の創設は明治十三年津軽藩お抱えの庭園師であった水原衛作(旧姓 柿崎)の計画によるもので、時の県令山田秀典の声援と木村荘助、三橋三吾、浅井辰五郎、永井傳蔵、村林勘六等の熱心な援助の下に、期間三ケ年総予算一万円の構想をもって明治十四年工事に着手した。
青森から造道に通ずる並木街道に、津軽歴代の藩主が嘆賞を惜しまなかったという三誉の松、相生の松の老松がある。この松を中心とする一万一千五百余坪の狐狸のすむ原野が公園建設の予定地であった。
山田県令の格別の計らいで、園地購入の寄附は着々と集まったが、明治十五年一月県令の急死にあい、募金は停滞して造園に一大支障を来たした。
責任感の強い水原は母や妻と共に町から園地の小屋に引き移り、一家をあげて終日荒地をひらき石を運び草木を植えて倦むことを知らなかった。ついには過労のために衛作は病床に臥したが、私財はことごとく造園の資に投じて今は治療の費用もなく、一家窮乏のうちに、明治十八年五月十四日、彼岸の公園完成をみることなく四十四歳を一期としてこの世を去った。
母は事業なかばでたおれたわが子の霊を慰めるため自分の悲嘆も忘れて衛作の弟巳十郎の奮起を促した。
巳十郎は母の真心と亡兄の悲願とに励まされて造園に専念すること十年、明治二十七年に至ってようやく公園を完成し、これをことごとく青森町に寄附した。
合浦公園は実に水原一家の献身的な奉仕と血のにじむ努力によって完成したものである。 |